kindle沼日記

電子書籍のことを中心にまったりとやっていきます

器の大きさ

「本気でたたかった相手を愚弄するんじゃないよ、

 そういうことしてると人としての器が小さくなるんだ」

 

スレッガーさん、いいこと言いますね。


いえ、最近ちょっと気になっていたんですよ。
近頃のアニメでは勝負して負けても相手の勝利を喜んだり、勝った方も相手の健闘を称えたりするケースが増えてきて、それはそれで見てて気持ちいいんだけど、私のような古い世代だとちょっと引っかかるところもあったのです。

負けた方は悔しくないのかとか、勝った方はもっと喜んでもいいんじゃないかとか。運動会のかけっこでゴール手前で横一列になって皆で一番みたいな悪平等と同じ匂いがするというか・・・ようはただの綺麗ごとじゃないかと・・・


昔のアニメだとそれこそ敵は嫌みで高飛車な奴が多くて、そんな奴を負かして勝ち誇る展開が多かったんですよね。悪い奴をやっつける勧善懲悪から派生した流れだと思うんですが、主人公の敵は悪であるという考え方が作り手にも見る側にもこびり付いていたんです。

でも普通に考えると高飛車に振舞って負けたらかっこ悪いし、今後も合うかもしれない相手に勝ち誇るのも気まずいしで、現実の世界ではありえないですよね。だからだんだんとその表現が廃れていったというのは、私のような古い世代にも分かるんです。主人公の敵が悪なんかじゃなくて、同じ分野で競い合う者同士な訳ですから、互いに称えあうというのも分からない訳じゃないんですよ。

 

奮戦して互いに称えあう姿を良いと思いつつ、どこか納得できない部分もあってもやもやしてたんですが、スレッガーさんの言葉でようやく分かりました。私の人間としての器が小さいから、頭では理解出来ても心から納得してなかった訳ですね。人の器の大きさという言葉は理解していたのですが、気の短さとかと違ってイマイチ具体的なイメージが出来なかったのです。それがスレッガーさんのおかげでパラメータとして認識できるようになりました。自分と敵対した相手をどれだけ認めることが出来るかなのですね。

 

情けは人の為ならずと同じで、相手を認めることは相手の為でなく自分が成長するのに必要なプロセスということなのでしょう。私は頭は良かったから相手から学ぶ必要をたいして感じなかったというのもありますが、実は器が小さかったからそのことに今まで気付かなかった訳です。四十代になってアニメのキャラクターからそのことを学ぶ・・・いやはや、お恥ずかしい限りです・・・

 

でもGファイターにビグザムの爪ミサイルは趣味が悪いと思うのよ、スレッガーさん・・・